くまログ

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僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46について思うこと 不協和音と平手友梨奈について

私は「不協和音」が嫌いである。

はじめに

はじめまして、くまです。
先日「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」という欅坂46ドキュメンタリー映画を見てきました。
このようなアイドルのドキュメンタリー映画を見てるところから察していただけると思いますが、私は欅坂46のファンです。
いや、ファンだったというべきでしょうか…。
この映画を見た上で改めてファンで居られるのか?と思うと疑問に感じることが増えたのでここに書き記します。

不協和音という曲についての第一印象

はじめに言ったように、私は欅坂46の代表曲である「不協和音」という曲があまり好きではありませんでした。
世間では代表曲としてとても評価されているものの…
2017年のリリース当時から違和感を感じる楽曲だったのを覚えています。
それが今回の映画を見てしっくりきましたのでいくつか理由を紹介したいと思います。

①曲の作る世界観が異様である


最初の理由は曲の世界観です。
歌詞を読めばわかりますが、この曲の世界観はデビュー曲の「サイレントマジョリティー」の系譜を踏んだ、大人への反逆をテーマにした曲です。

それ自体は嫌ではないし、サイレントマジョリティーにおいては
”大人たちに支配されるな 君らしく生きていく自由があるんだ”
と歌うその姿はかっこよさと同時に強いメッセージを孕んだ楽曲として私としても評価は高い評価をしていました。

ですが、同じカテゴリの「不協和音」を受け入れがたいのはこのサイレントマジョリティーにおける曲の世界観を必要以上に誇張しすぎている。
と感じたのが大きいです。

サイレントマジョリティーのテーマが大人への反逆、アイデンティティの確立。であるとするなら、不協和音においては同調圧力と仲間の裏切りへの抵抗。支配からの脱却、それに対して戦うことを辞さない。
と言った、ある種の戦争状態のような世界観の曲になってます。

当たり前ですが、現代の日本において集団との調和を求められることは多いです。
ですが、イジメ問題などはあるにしても…
後ろから突然仲間に銃撃されたり、殴られたりなんてのはまぁほぼありません。強いて言うなら陰口を言われるくらいです。
(余談ですが、不協和音のカップリングであるエキセントリックは個人的にはとても評価しています。
エキセントリックは不協和音よりもだいぶマイルドな世界観でリアリティを感じます…)

しかし不協和音ではサイレントマジョリティーにあった自分を貫く姿勢をより誇張するためにか、仲間の裏切りや力でねじ伏せられる。といったかなり誇張した表現が使われます。
最初に聞いた時に曲の雰囲気とともにこの歌詞の世界観にも違和感を覚えてしまいました。

平手友梨奈の表現力

不協和音のパフォーマンスにおいて、センターの平手友梨奈の表現力というのは欠かせないものだと思っています。
映画においてもそれは顕著に現れていました。
不協和音のMVの撮影中一言も話さず目を合わせないその姿に、その他メンバーが声をかけづらくなった。というのは納得でしょう。

平手友梨奈という人物は憑依型でパフォーマンスを行う人間だとわたしは思っています。
憑依型というのは、
曲や作品の世界観における登場人物(もしくはそのイメージ像)を自分に投影し、一種の自己催眠のような状態にでパフォーマンスをすることを指してます。

これはサイレントマジョリティの時代からその傾向はあり、
「笑わないアイドル」などとニュース番組で呼ばれることもありました。

最初にで話したように不協和音の世界観では、単に孤独な人物が主人公というわけではなく。
仲間と呼べる人物はいるものの、いつ裏切ってくるかもわからない。
同調しないと攻撃されるかもしれない。
といった世界の中で、支配しようと思うなら倒してみろ。
というかなり強い意志をもった人物像が主人公です。

映画の中でメンバーも言ってますが、この曲をやるととてもエネルギーを消費するそうです。
ダンスパフォーマンスの肉体的な疲れはもちろんあると思いますが、
とくに憑依しがちな平手友梨奈においては常人では理解に苦しむほど精神的なストレスが発生する曲だったのでしょう。

その影響か、この曲のパフォーマンスを行うたびに体調不良などを起こしてたり。
2017年の紅白歌合戦などで倒れたことなどは記憶に新しいと思います。

③世界には愛しかない、二人セゾンの世界観について


これは理由とは少々違いますが、サイレントマジョリティーと不協和音の間にリリースされた「世界には愛しかない」と「二人セゾン」という楽曲についても触れておきます。

2ndシングルの世界には愛しかないはそのタイトルの通り、世界には愛しかないと信じている。と声高らかに歌う曲です。
サイレントマジョリティーや不協和音とは真逆のこれもまたある意味異様な楽曲と言えます。
(しかし、そういう愛しかないと信じている。というアイデンティティについてはこの曲でも歌ってます。)

3rdシングルの二人セゾンにおいては変わりゆく季節とその変化の尊さを
僕と君との出会いと別れを用いて描いたというこれも秀逸な作品です。
世界は変化に富んでいて、その一瞬の煌きは儚くて切なく、美しいものである。
といった内容のこの曲もこれもまた不協和音との世界観とは真逆の世界です。

この2つの共通点はどちらも愛や恋といった一般的なアイドルの歌う曲の世界観に近いことです。
そして平手友梨奈さんはこの曲においても(年齢を考えると)圧倒的表現力でその世界観を作り出していました。

ここで特筆したいのは平手友梨奈さんはこのような真逆の楽曲においてもその世界観を表現できていたことです。
(いろんな主人公を表現できるのでそのため憑依型と呼んでいる節はあります。)

そのため決してサイレントマジョリティや不協和音などの、孤独に周囲の圧力と戦い続ける姿しか演じられないわけではないのです。

壊れていく平手友梨奈

冒頭の映画において、不協和音以降の楽曲はどれも不協和音の世界観を引き継いだものが多くなっていきました。
不協和音ほどではないにしても8thシングルの「黒い羊」なども同様の世界観と言えるでしょう。
「全部僕のせいだ 僕だけがいなくなればいいんだ」
と言ってしまうような周囲と歯車が合わせられない自分への葛藤を描いた曲です。

平手友梨奈さんはこの曲においても素晴らしいパフォーマンスをしてくれましたが…
やはりこういう曲をやり続けることでどんどん平手友梨奈さんの精神は蝕まれていったようです。

このような曲をやり続ける姿に対して映画ではかなりエグい姿をそのまま描写をしています。
例として錯乱して過呼吸になった平手さんをそのままステージまで大人二人がかりで運んでいく。といった内容です。
見る人によってはかなり気分的にえぐられるようなその姿に私としても見てるのがしんどかったです。

平手友梨奈さんの脱退

2020年初め、欅坂46の公式サイトにおいて平手友梨奈さんの脱退が発表されました。
当時は話題になりましたが、この映画の内容を見てから思うとある種当たり前の選択だったんだと思います。
むしろ、上記のような状態のままかなり長いこと在籍していたんだな。と思いました。

やはりこれは欅坂というチームとして、平手さんの代わりになれる人がいないまま、平手さんに依存しきる体制になってしまったのがやはり大きいのでしょう。

欅坂46というグループのいびつさ

上記でも触れたように、平手さんに依存しきる体制はかなり長いこと続いていたようです。
これは映画の中でその他メンバーも自らを平手のバックダンサーといってしまうくらいのものでした。

ここにおいて気になる点は沢山あるのですが、個人的にはサイレントマジョリティーの世界観と実際の欅メンバーの噛み合わなさが特に気になります。

それは何かというと
サイレントマジョリティーでは自分たちのアイデンティティをうたっているのにもかかわらず、実際の欅メンバーは平手以外自分のアイデンティティを失っているような印象を受けることです。
悪く言うと自分の意見はあまりなく、同調して平手さんの表現力やカリスマ性といったものに依存しきっていたことです。
(もちろんそう感じてないメンバーも少なからずいたとは思いますが…)

その依存体質がグループ内で蔓延していたと思うと、自分の意志を持て。と歌っているアーティストとしては矛盾にも似た気持ち悪さを感じるようになりました。

不協和音が嫌いな理由

最大の理由は先程述べたメンバーの意志薄弱な姿と曲の世界観の矛盾です。

それはきっとリリース当時から私が感じてた違和感としてやはり現れていたのでしょう。
この映画を見た上で不協和音に思う感想は
平手と欅を崩壊に導いていった曲。
意志薄弱なメンバーが強い意志を歌ういびつな曲。

といったものになりました。

メンバーへのネガティブなイメージも多かれ少なかれ抱いてしまった身として、改めて欅坂のファンですか?と言われると、自身を持ってイエスとは言えなくなりました。

もちろんそれは誰が悪いわけではないのですが・・・
やはり世界には愛しかないや二人セゾンの世界観を残したまま運営していってほしかったなと今は思います。

今は妹分であった旧けやき坂である日向坂46のファンに移り変わってしまいました。
欅坂の改名後がどうなるかわかりませんが…
引き続き日向坂ファンとして遠くから新生欅坂を見守っていきたいと思います。